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熊本日日新聞で連載スタート

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熊本日日新聞で連載スタート

11月11日(月)の夕刊より、毎週一回月曜日の夕刊にて石森先生作「肥後もっこす 映画監督牛原虚彦抄」が連載されます。
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来春より「熊本日日新聞」での連載決定  ”牛原先生が、チャールズ・チャップリンの弟子、だとすると….....”

脚本家 石森史郎先生による「肥後もっこす 映画監督・牛原虚彦抄」が、来春(2013年)より熊本日日新聞で連載されることが決定した。



脚本家を目指していた「石森青年」は、日本大学藝術学部映画学科に入学。そこで、教授として目の前に現れたのが牛原虚彦であった。

「肥後もっこす 映画監督・牛原虚彦抄」には、二人の出会いが、みずみずしく描かれている。

以下本文より一部抜粋

・・・教室内の学生たちの中で、牛原先生の著書を読んで知っている数人は識っていたかも知れないが、残念ながらまだ読んでいなかった私は、耳を疑ったのである・・・

・・・中略・・・

「ワタクシは、チャップリン先生のもとで、撮影中でございました『サーカス』の助手に就かせて頂く幸運を得まして、すぐお傍近くで、半年間、みっちりとチャップリン先生の映画演出法を教わったのでございます」
 そうお話なさる牛原先生は、誇らし気に、私には見えていた。世界のチャップリンのもとで、半年間、助手をなさっていた牛原先生に、いま、映画について私は教えられているのか、ふとそう思った私は、自分を誇らしく感じたのである。と同時に、牛原先生が、チャールズ・チャップリンの弟子、だとすると……この私は、チャップリンの孫弟子ということに……おこがましくも、そんな想いが私の胸の中を突き抜けていったのであった。


・・・・・・教え子の石森史郎が尊敬してやまない恩師・牛原虚彦先生との四年間の学生生活で直接、指導を受けた講義ノートを開き、そこに書き込まれている一行一行から、遥か彼方に消えかかっている記憶をたぐり寄せてみようと考えている。
かけらになって四方八方に飛び散ってしまった様々なことどものひとつひとつを、兎にも角にも拾い集めて、たどたどしく綴ってみるつもりである。・・・・・

どうぞお楽しみに!

大正15年 「受難華」

虚彦監督の大正15年(1926年)といえば、その1月から7月までをアメリカ・ハリウッドのチャプリン撮影所において、「サーカス」製作中のチャップリン監督のもとで学ぶという機会に恵まれた年だ。

8月に帰国すると、さっそく松竹蒲田撮影所で映画製作に戻った。

「帰朝第一弾」と宣伝ポスターにも大書きされた作品は菊池寛原作の「受難華」だった。
いわゆる「アメリカ帰り」の虚彦監督が、アメリカでどんな影響を受け、それが作品にどのように反映されているのか、多くの人々の注目を集めることになったのは、言うまでもない。

石森史郎先生は「肥後もっこす 映画監督・牛原虚彦抄」のなかで、そのあたりを以下のようにお書きになっている。

(以下抜粋)

牛原先生の『受難華』は、栗島すみ子、松井千枝子、節波雪子、三田英児、鈴木伝明、島田嘉七、渡辺篤という松竹蒲田撮影所を代表するスターたちが総出演しているのと、監督の牛原虚彦が、ハリウッドに渡り、世界中の映画界の人たちの垂涎の的であるチャールズ・チャップリンのもとで、半年間、勉強をして帰朝したというのがマスコミの話題になった上に、原作が人気小説家の菊池寛とあっては、人々の関心を集めない筈はなかったから、全18巻が、12月12日、浅草松竹館で封切られた時は、一回目の上映から、押しかけた観客で超満員となり、入場希望者を収容しきれずに、事故発生を怖れた警察から強要されて入場札止めになったというエピソードが記事になって残っている。

 この現象は、浅草や東京の封切館に留まらず、地方の大都市の封切館でも、同様の現象が起きていたのであった。

 年内一杯での上映予定が、お正月興行でも、一向に客足が落ちることなく、一部を除いて、殆どの上映館が『受難華』をお正月映画と謳いあげて、空前の大ヒット作品となったのであった。

 牛原先生の帰朝第一回作品は、アメリカ帰りの監督と注目されるだけの、ハリウッドで覚えた演出テクニックが活かされ、斬新な演出手腕を発揮した映像が、観客からも大絶賛されて、大成功を収めたのである。

(抜粋終わり)



受難華

牛原先生が、チャールズ・チャップリンの弟子、だとすると……この私は、チャップリンの孫弟子ということに

脚本家 石森史郎先生による「肥後もっこす 映画監督・牛原虚彦抄」は現在、鋭意編集作業中である。

脚本家を目指していた「石森青年」は、日本大学藝術学部映画学科に入学。そこで、教授として目の前に現れたのが牛原虚彦であった。二人の出会いが、みずみずしく描かれている。

以下本文より一部抜粋

・・・教室内の学生たちの中で、牛原先生の著書を読んで知っている数人は識っていたかも知れないが、残念ながらまだ読んでいなかった私は、耳を疑ったのである・・・

・・・中略・・・

「ワタクシは、チャップリン先生のもとで、撮影中でございました『サーカス』の助手に就かせて頂く幸運を得まして、すぐお傍近くで、半年間、みっちりとチャップリン先生の映画演出法を教わったのでございます」
 そうお話なさる牛原先生は、誇らし気に、私には見えていた。世界のチャップリンのもとで、半年間、助手をなさっていた牛原先生に、いま、映画について私は教えられているのか、ふとそう思った私は、自分を誇らしく感じたのである。と同時に、牛原先生が、チャールズ・チャップリンの弟子、だとすると……この私は、チャップリンの孫弟子ということに……おこがましくも、そんな想いが私の胸の中を突き抜けていったのであった。


・・・・・・教え子の石森史郎が尊敬してやまない恩師・牛原虚彦先生との四年間の学生生活で直接、指導を受けた講義ノートを開き、そこに書き込まれている一行一行から、遥か彼方に消えかかっている記憶をたぐり寄せてみようと考えている。
かけらになって四方八方に飛び散ってしまった様々なことどものひとつひとつを、兎にも角にも拾い集めて、たどたどしく綴ってみるつもりである。・・・・・

どうぞお楽しみに!


石森史郎作 「肥後もっこす 映画監督・牛原虚彦抄」

牛原虚彦監督の生誕115年を記念して、脚本家 石森史郎先生が昨年より執筆されていた原稿がついに完成した。

タイトルは「肥後もっこす 映画監督・牛原虚彦抄」、400字詰め原稿用紙に換算すると370枚強、文字数15万文字以上という大作だ。

石森先生と私の出会いは、昨年秋、映画プロデューサー・芥川保志氏をたずねたことに端を発し、引き合わせていただいたのだ。おぼろげな記憶からネットで名前検索、電話連絡というシンプルな方法で芥川氏をおたずねし、初めてお会いしたのが、わずか半年ほど前のことだ
私の記憶の中にある芥川氏のお名前は、そのままイコール「牛原虚彦顕彰会」(1980年)であり、当時のテレビ番組「スター千一夜」だ。その後短期間に、さまざまなキーマンとなる人物をご紹介をいただき、当プロジェクトは「芥川パワー」によって、急速に前進しているといっても過言ではない。その一つが、今回の石森先生の原稿なのだ。

石森先生は、日本大学芸術学部映画学科にて牛原虚彦の生徒のお一人だった。その学生時代のお話は、原稿に詳細に描かれているので、ここでは書かないが、ご卒業後、日活そして松竹に籍をおかれ、その中で牛原陽一監督との出会いもあり、そして、2011年には私と.....というように牛原家が3世代にわたってお付き合いをさせていただくことになっている。不思議な縁で結ばれていると感じる。

現在、東京国立近代美術館フィルムセンターおよび早稲田大学演劇博物館のご協力を得て、1920年代から1950年代までの牛原虚彦関連の映画スチル写真、ロケスナップなどの写真資料の収集を行っている。



出版・映像企画の今後の進捗は、当ブログで、ご報告していくのでお楽しみに!


プロフィール

牛原 陽彦(うしはら はるひこ)

Author:牛原 陽彦(うしはら はるひこ)
◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  

父 牛原陽一(うしはら よういち、Youichi USHIHARA)監督が亡くなって33年、祖父 牛原虚彦(うしはら きよひこ、Kiyohiko USHIHARA)監督が亡くなって25年、多くの情報があふれる中、2人について正しく伝える媒体が少ないのが現状です。

私、牛原陽彦が、祖父、父より引き継いだ資料、書物、当時の新聞などをベースに、2人の仕事、活動を正しく記録すべく、当ブログを開きました。膨大な資料から、作品、活動を振り返ります

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