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映画監督 牛原 虚彦の作品、活動

映画監督 牛原 虚彦(うしはら きよひこ)(1897年~1985年)

誕生~東京帝国大学へ

明治30年(1897年)3月 熊本市京町に生まれる。本名、清彦。父、満太郎、母、冬、6人兄弟姉妹の5番目。祖父、牛原次三郎は細川藩士、京都禁裡警衛細川藩士54名のひとり。父は熊本隊士として西南戦役に参加した後、九州日日新聞に入社。柔術道場の師範として活躍した。

大正3年3月 熊本県立中学校済々黌を卒業

大正6年7月 第五高等学校卒業。

大正9年7月 東京帝国大学文学部英文学科卒業。


松竹キネマ合名社 蒲田撮影所入所

大正9年(1920年) 帝大卒業と同時に松竹キネマ合名社蒲田撮影所に入所。小山内薫の下、新時代の芸術としての映画を意欲的に探求。「温泉の一夜」、「悪魔の崖」、「黒き潮」、「死の仮面」、「渦巻く潮」(以上全て賀古残夢監督作品)にて脚本を担当

大正10年(1921年) 蒲田撮影所より独立した松竹キネマ研究所第一回作品「路上の霊魂」の脚本を執筆。小山内薫総監督、村田実監督の助手として働き出演も。同年、研究所第二回作品「山暮るる」を監督。第一回監督作品となる。研究所解散とともに蒲田撮影所所属監督となる。この時期の代表作は「母いずこ」をはじめ11作品

大正11年(1922年) 女優、三村千代子と結婚。「若き人々」、「傷める小鳥」など11作品

大正12年(1923年) 「狼の群」など8作品。「無花果」撮影初日(9月1日)、蒲田撮影所にて撮影中、関東大震災に罹災。京都へ一時移住。ここ京都(洛陽)にて長男陽一(後の映画監督牛原 陽一)誕生。松竹キネマ京都撮影所が製作開始

大正13年(1924年) 「子供の世界」、「詩人と運動家」、「無花果」など13作品

大正14年(1925年) 大阪朝日新聞15,000号記念懸賞当選作の映画化「大地は微笑む」(松竹、日活、東亜競作三部作)。
「全関西映画協会 大正14年度日本映画金賞及び監督賞」受賞。

また「伝明・虚彦」コンビと言われた、鈴木伝明との第一作「恋の選手」や「恋の栄冠」、「象牙の塔」、「乃木将軍」など9作品


チャールズ・チャップリンの門下生になる

大正15年1月(1926年) ハリウッドへ。
細川公爵のすすめにより、映画研究のためハリウッドへ渡る。

チャールズ・チャップリン門下生として「サーカス」の撮影班の一員となる。またこの時、ハリウッドで「象牙の塔」、「乃木将軍」の自作2作の試写会を開いた。この試写会はハリウッドのアンバサダー・ホテルにて行われ、モンテ・ブルウ、アイリーン・リッチ、エリナ・ポオドマン、アンナ・メイ・ウオン、レイモンド・グリフィス、キング・ヴィダアなどが来会。

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9月に帰国、蒲田撮影所にて作品活動を再開。
・「受難華」(菊池寛原作)(キネマ旬報ベストテン第6位)1作品

昭和2年(1927年) ・「昭和時代」 ・「村の人気者」 ・「海浜の女王」、3作品


 「伝明・絹代・虚彦」連作、松竹のドル箱に

昭和3年(1928年) 鈴木伝明、田中絹代の若者三部作が始まる
・「彼と東京」(キネマ旬報ベストテン第5位) 
・「彼と田園」
・「彼と人生」(昭4) 
・「陸の王者」(キネマ旬報ベストテン第2位)など5作品

昭和4年(1929年)
・「大都会労働篇」(キネマ旬報ベストテン第9位)
・「山の凱歌」(鈴木伝明、田中絹代主演)など3作品


松竹創立十周年記念映画「進軍」を監督 

昭和5年(1930年)
・「進軍」(松竹創立十周年記念映画、鈴木伝明、田中絹代ほかオールスター)
・「若者よなぜ泣くか」(キネマ旬報ベストテン第2位)など3作品。

松竹退社、トーキー研究のためフランス、ドイツ、イギリス、スペイン、アメリカを訪問(11月)

昭和7年(1932年)11月 渡欧、渡米より帰国。翌年日活太秦撮影所入所

昭和8年(1933年) ・「未来花」 ・「大学の歌」 ・「東京祭」(日活京都太秦撮影所)、3作品

昭和9年(1934年) ・「心の太陽」(日活京都太秦撮影所) ・「世紀の青空」(新興キネマ京都撮影所)、2作品

昭和10年(1935年) ・「男三十前」(高田稔プロダクション)など2作品

昭和11年(1935年) ・「ふるさとの歌」 ・「五々の春」・「掏摸の家」(高田稔プロダクション)など5作品

昭和12年(1936年) ・「南風薩摩歌」(新興キネマ京都撮影所)など3作品

昭和13年(1937年) 「・怪猫謎の三味線」(新興キネマ京都撮影所)など2作品

昭和14年(1939年) ・「山之内一豊の妻」(新興キネマ京都撮影所)など2作品

昭和15年(1940年) ・「旗岡巡査」(新興キネマ京都撮影所)など2作品

昭和16年(1941年) ・「新門辰五郎」(新興キネマ京都撮影所)など2作品


大映創立記念作「維新の曲」を監督

昭和17年(1942年)、企業統合により大映撮影所所属となる。対英米開戦下、坂東妻三郎、市川歌右衛門、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎などオールスターキャスト作、大映創立記念作品「維新の曲」を監督。ほかに「成吉思汁」の2作品

昭和18年(1943年) 「剣風練兵館」1作品

昭和21年(1946年) 「街の人気者」(大映東京多摩川撮影所)1作品

昭和22年(1947年) 「いつの日か花さかん」(大映東京多摩川撮影所)1作品

昭和23年(1948年) 「誰に恋せん」(大映東京多摩川撮影所)1作品

昭和24年(1949年) 「虹男」<パートカラーの実験映画>(大映東京多摩川撮影所)1作品

昭和25年(1950年) 大映退社、フリーとなる。日本大学芸術学部客員教授就任(1月)


97作品を残して現役引退

昭和27年(1952年) 特に請われて大映作品「いついつまでも」をポール・スローン(アメリカ)と共同監督。これが現役最後の監督作品となる。大正10年(1921年)の第一回監督作品「山暮るる」より97本の映画作品を監督した。


国際映画祭の審査員として世界各国へ

昭和30年(1955年) ・共立女子大学文芸学部講師就任(4月)
 ・ヘルシンキ世界平和集会に日本映画代表として出席(6月) ・ベルリン映画祭に日本代表として出席(7月)


昭和31年(1956年) ・第十七回ヴェニス国際映画祭に審査員として出席(7月) 
 ・ウイーン世界科学映画大会に日本代表として出席(9月) ・日本大学芸術学部専任教授就任


日本大学藝術学部映画学科教授就任、後進の指導に

昭和32年(1957年) ・日本映画人代表団長として中国・北京、長春、上海、南京、広州にて映画、演劇研究(2月) 
・モスクワにおける第六回世界青年学生平和友好祭、国際映画祭に審査員として出席(6月) 
・北京におけるアジア映画祭に日本映画代表団団長として出席(8月)

昭和34年(1959年) ・第一回モスクワ国際映画祭に審査員として出席(8月)

昭和35年(1961年) ・カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭に審査員として出席(8月)

昭和36年(1961年) ・マニラにおいて第八回アジア国際映画祭に審査員として出席(2月)

昭和38年(1963年) ・第三回モスクワ国際映画祭に審査員として出席(9月)


紫綬褒章 勲四等旭日小綬賞 受勲

昭和40年(1965年) ・紫綬褒章を受ける

昭和43年(1968年) ・勲四等旭日小綬賞を受ける

昭和50年(1975年) ・にっかつ芸術学院初代学院長就任

昭和58年(1983年)・第7回山路ふみ子映画賞 映画功労賞受賞 

昭和59年(1984年)・第39回毎日映画コンクール 特別賞受賞


(著書)
昭和2年(1927年)「映画万華鏡」(中央美術社)
*平成18年「最尖端民衆娯楽映画文献資料集」第六巻として影印復刻(ゆまに書房
昭和3年(1928年)「オペラと映畫」(共著 文化生活研究会)
昭和43年(1968年)「虚彦映画譜50年」(鏡浦書房)
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プロフィール

牛原 陽彦(うしはら はるひこ)

Author:牛原 陽彦(うしはら はるひこ)
◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  

父 牛原陽一(うしはら よういち、Youichi USHIHARA)監督が亡くなって33年、祖父 牛原虚彦(うしはら きよひこ、Kiyohiko USHIHARA)監督が亡くなって25年、多くの情報があふれる中、2人について正しく伝える媒体が少ないのが現状です。

私、牛原陽彦が、祖父、父より引き継いだ資料、書物、当時の新聞などをベースに、2人の仕事、活動を正しく記録すべく、当ブログを開きました。膨大な資料から、作品、活動を振り返ります

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