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大正15年 「受難華」

虚彦監督の大正15年(1926年)といえば、その1月から7月までをアメリカ・ハリウッドのチャプリン撮影所において、「サーカス」製作中のチャップリン監督のもとで学ぶという機会に恵まれた年だ。

8月に帰国すると、さっそく松竹蒲田撮影所で映画製作に戻った。

「帰朝第一弾」と宣伝ポスターにも大書きされた作品は菊池寛原作の「受難華」だった。
いわゆる「アメリカ帰り」の虚彦監督が、アメリカでどんな影響を受け、それが作品にどのように反映されているのか、多くの人々の注目を集めることになったのは、言うまでもない。

石森史郎先生は「肥後もっこす 映画監督・牛原虚彦抄」のなかで、そのあたりを以下のようにお書きになっている。

(以下抜粋)

牛原先生の『受難華』は、栗島すみ子、松井千枝子、節波雪子、三田英児、鈴木伝明、島田嘉七、渡辺篤という松竹蒲田撮影所を代表するスターたちが総出演しているのと、監督の牛原虚彦が、ハリウッドに渡り、世界中の映画界の人たちの垂涎の的であるチャールズ・チャップリンのもとで、半年間、勉強をして帰朝したというのがマスコミの話題になった上に、原作が人気小説家の菊池寛とあっては、人々の関心を集めない筈はなかったから、全18巻が、12月12日、浅草松竹館で封切られた時は、一回目の上映から、押しかけた観客で超満員となり、入場希望者を収容しきれずに、事故発生を怖れた警察から強要されて入場札止めになったというエピソードが記事になって残っている。

 この現象は、浅草や東京の封切館に留まらず、地方の大都市の封切館でも、同様の現象が起きていたのであった。

 年内一杯での上映予定が、お正月興行でも、一向に客足が落ちることなく、一部を除いて、殆どの上映館が『受難華』をお正月映画と謳いあげて、空前の大ヒット作品となったのであった。

 牛原先生の帰朝第一回作品は、アメリカ帰りの監督と注目されるだけの、ハリウッドで覚えた演出テクニックが活かされ、斬新な演出手腕を発揮した映像が、観客からも大絶賛されて、大成功を収めたのである。

(抜粋終わり)



受難華

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プロフィール

牛原 陽彦(うしはら はるひこ)

Author:牛原 陽彦(うしはら はるひこ)
◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  

父 牛原陽一(うしはら よういち、Youichi USHIHARA)監督が亡くなって33年、祖父 牛原虚彦(うしはら きよひこ、Kiyohiko USHIHARA)監督が亡くなって25年、多くの情報があふれる中、2人について正しく伝える媒体が少ないのが現状です。

私、牛原陽彦が、祖父、父より引き継いだ資料、書物、当時の新聞などをベースに、2人の仕事、活動を正しく記録すべく、当ブログを開きました。膨大な資料から、作品、活動を振り返ります

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